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安倍晴明塚跡1
東山区大和大路松原の西北あたりにあったといいます。
あくまでも伝説のたぐいですが…京都は、一度大雨が降ると鴨川などの河川の氾濫に悩まされることが多く、陰陽師(おんみょうじ)の安倍晴明は、この自然の猛威を鎮めるために一計を案じ鴨川の畔に寺を建立することにしました。寺名は、法城寺。「法は、水が去る。城は、土が成る。」の願意を込めて、鴨川に架かる五条橋(今の松原橋)の東北に建てました。晴明が、この寺で亡くなるとその遺骸は、境内に葬られ、これがのちに廃寺となり墓のみとなっていたのを晴明塚と呼ばれるようになりました。しかし、この晴明塚は今は見る陰もありません。
貞享3年(1686年)刊行の『雍州府志』では、晴明塚は、「三条橋の東に心光寺(超勝寺門前町)在り」と記し、晴明塚の由緒を、鴨川の氾濫を鎮めるために、陰陽師の安倍晴明が五条橋の東北に寺を建立し、晴明が死ぬとその寺の境内に埋葬され、のち、塔婆が立てられ、その後、この地に法城寺という名の寺が建立されたといいます。
法城寺というのは、「水が去り土が成る」という意図がこめられていましたが、幾度となく鴨川の氾濫に見舞われたため、三条橋の東に移転して、心光寺という浄土宗の寺院に改めました。この時、晴明塚も移したといいます。しかし、この晴明塚も今はありません。
文久2年(1862年)刊行の『花洛名勝図会』に「晴明社、松原通宮川町の東北にあり、今堂を構えて晴円寺と号し、阿弥陀仏を安置す」「宮川町の新道を開発なせる頃、塚を平均して、次第に平地と成し故、晴明大明神の祠をその所に建て霊を祭るにや」とあり、大和大路松原の西北にあった晴明塚の方は晴明社と呼ばれ堂を構えるほどになり、晴円寺と号していました。この晴円寺は寛文年間(1661〜1673年)に宮川町に新道を造成するために取り壊され、その跡に晴明大明神の祠が建てられ晴明社と呼ばれるようになりました。この祠も廃仏毀釈により明治4年(1871年)には取り壊されました。祠を廃するに際して本尊として祀っていた阿弥陀如来像と安倍晴明像は、中京区河原町六角西入ル松ヶ枝町471(裏寺町六角東南角)の長仙院に譲渡されました。宮川筋の西にあった晴明塚が、物吉村に移されたことから松原裏通りを晴明辻子(せいめいのずし)と呼ばれるようになります。
元禄2年(1689年)刊行の『京羽二重織留』に「東川原五条(あづまがわらごじょう−鴨川東岸松原)の北、晴明塚と云う。近世までありしと云々」
正徳元年(1711年)刊行の『山州名跡志』に「晴明塚伝えて云う。これ即ち安倍晴明なり。はじめ宮河町の西、鴨河の東岸に在り。近年猶あって、四条河原の橋より南を見るに、此の塚の松見えしなり。宮河町を開くに及んで、この塚、滅しぬ。凡そ晴明塚というものは、所々に在り。」とあります。
安倍晴明塚跡2
晴明塚は、東山区の伏見大路三ノ橋の南にある浄土宗の寺院遣迎院(天正年間に上京の寺町広小路に移り、さらに昭和29年に鷹峰に移転しました。現在地には、祀堂が残っていましたが、明治の初め、廃仏毀釈の煽りを受けて取り壊されました。のち、大正3年に南遣迎院として、旧に復しました。)の裏にあったといいます。このあたりは、陰陽師の居住地であったとか、安倍晴明の別荘が三ノ橋の西南にあったという伝承があります。
安倍晴明塚跡3
安倍晴明塚の墓(陰陽博士安倍晴明公嵯峨御墓所)は、右京区嵯峨角倉町にあります。嵐山・渡月橋より300mほど大井川(桂川)の下流に行くと「公立学校共済組合嵐山保養所花のいえ」があり、この建物の手前の小川(瀬戸川)沿いの細い道を120m程北へ行くと長慶天皇陵・承朝王墓があります。この陵墓の手前の細い道を右手に進んでゆくと20mほどのところに安倍晴明の墓があります。安倍晴明の墓は、もとは天龍寺の塔頭寿寧院の境内にありましたが、荒廃状態にあり、上京区にある晴明神社が墓所を買収して昭和47年4月に新しく建てられたものです。
【安倍晴明(あべのせいめい)】
延喜21年〜寛弘2年(921〜1005)平安時代中期の陰陽家(おんみょうか)・天文博士。土御門家(つちみかどけ)の祖。賀茂忠行(かものただゆき)を師にもち、天文道をよくし、天皇や公家等の祭礼や占術で吉凶を占い陰陽家の大家と崇められた。著書に『占事略決』・『金烏玉兔集』がある。安倍晴明にまつわる神秘的な説話は、『大鏡』『今昔物語』『古今著聞集(ここんちょもんしゅう)』『古事談』『平家物語』『源平盛衰記』『宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)』『元享釈書(げんこうしゃくしょ)』などに数多く載せられている。
例えば、『今昔物語』に、晴明が寛朝僧正(かんちょうそうじょう)の僧房を訪ねたときに居合わせた若殿達や僧から、人をたちどころにして殺すことができるか否かを問われた。罪なことと知りつつも自分の術力を試されていると思った晴明は、庭先にいた蛙に向かって呪文を唱え、草の葉を投げつけた。するとその葉が蛙の上に乗るや否や、蛙はたちどころに圧死してしまった。また『源平盛衰記』に晴明には、12人の職神(しきがみ)が仕え、晴明の手足となって働き、邸内はいつも妖気が漂っていた。晴明の妻は、職神の容貌があまりに凄まじいので、おびえるばかりの毎日であった。これを見かねた晴明は、職神達を一条戻橋の下に呪して閉じ込め、用事のある時には呼び出して任務にあたらせたという話がある。
写真:上)心光寺
中)安倍晴明像(長仙院)
下)安倍晴明塚の墓(陰陽博士安倍晴明公嵯峨御墓所)
解答者:加納 進
『CD―ROM 京都六道の辻伝説』(京都の史跡を訪ねる会編・クリエイターズネットEFF制作・大日本スクリーン製造株式会社製造発売元)より一部掲載
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