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今秋出版予定の冊子『東山に幕末動乱の足跡を訪ねて』の予告の中で「某山中の墓石に“勇”の文字が……」の見出しに対して多くの方が関心を寄せられていることを知りました。
「出版は、まだか、まだか」と云われる方のために出版に先達て予め概要だけでも述べておきます。
今のところ、この墓が近藤勇の墓(頭部の)であるとの確証はありません。
もしかして、この墓が近藤勇の墓では、という部分とそうではない部分が相剋しています。
それは、墓石四面の陰刻の記述に今一つ納得しかねる内容が含まれていることと、それらしき形跡を留めているように思われる内容が相合わせもって存在しているからです。
そのことについて、最初にこの墓に出会った経緯からお話してまいります。
この小高い山に初めて登ったのは、今から25〜28年も昔のことになります。当時、晴れた日の日曜・祝日ごとといっていいくらい京都の古都らしい風景を求めてあちこち野に山に歩きまわっていました。いつの日だったのか忘れましたが、市電(現在は廃止)の通る表通りを歩いていると、脇に細くゆるやかな登り坂の小径があり、その小径の両側には、樹木鬱蒼と生い茂っていて薄暗く、その向こうは明るく開けていました。距離にして150mほどの小径を歩いてゆくと悠然と佇む大きな山門が視界に入り、大きな寺の境内に居ることを自覚しました。
その山門を横目に見ながら足の赴くまま寺の背後の山を登ってゆくと、ほどなく小高い山上に到達しました。当時、山上一帯は雑草で覆われ、また、枯木が散乱していて、あたりは見渡す限り殺風景な様相であったと朧げながら記憶しています。
その雑草の中に腰の高さつまり60cm位の墓と直ぐ脇に35〜40cm位の墓の大小2つの墓があって、大きい方の墓の正面に「−勇−」の文字が陰刻されていて、側面には、「慶応―」の文字が刻んであったところから「ひょっとして近藤勇の墓(頭部)では、−小さい方の墓はお妾さんの墓では−」などと思いつつもとりたてて関心がなかったせいもあって、その後は、このことをすっかり忘れていました。
この度、散策ガイド冊子『東山あたりに幕末動乱の足跡を訪ねて』を制作するにあたって「伊東甲子太郎と高台寺党」の編では、行きつくところは、近藤勇の最期ということになり、例の墓の存在が気になり出し、近藤勇の墓ではないか、という問題の再燃と相成った次第です。
この墓のある場所や墓石に陰刻された記述を極力明確にしなかったのは、この墓が近藤勇の墓かどうか判らないのに徒に騒ぎ立てる結果となっては不謹慎かと思われ、この懸念からに他なりません。出版物では、できる限り調査結果など発表する予定でいます。
そもそも、「近藤勇の墓か……」としたことがいささか勇み足であったかも知れません。
“史道不覚悟”
解答者:加納 進
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