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北区堀川通北大路下ル西側の凹溜にあります。小野篁は平安時代初期の官史で歌人漢学者として知られ『令義解』の撰者でもあり、奇行伝承や冥界還往伝説が数多く、野狂・野相公・野宰相の俗称があります。
一方、紫式部は、平安時代中期の文学者・歌人で、『源氏物語』『紫式部日記』『紫式部集』の作品があります。
この墓の伝承は、室町時代の四辻善成が著わした源氏物語の注釈書『河海抄』に「紫式部の墓所雲林院の白豪院の南に在り小野篁の墓の西なり」と記述されており、紫式部の墓の所在の初見になります。よるものです。この記述からは、現在のように二つの墓が並んでいたとは思われません。
江戸時代になって『山州名跡志』や『山城名勝志』『扶桑京華志』『都林泉名勝図会』『甲子夜話』に、両家の存在が記され、江戸時代には現在のように相隣接していたことが伺えます。
雲林院は、今の大徳寺辺りと考えられ白豪院については『太平記』や『園太暦』に出てきます。白豪院は、室町時代には、存在が明らかですがその後は、不明です。恐らく荒廃したものと思われ、のち天正年間(1573〜1592)に上京区千本通盧山寺上ル西側にある引接寺に移築したと伝えられ境内には紫式部供養塔と伝えられる石塔があります。
写真:上)紫式部墓(北区)
下)小野篁墓
解答者:加納 進
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