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現在は、京都市右京区嵯峨小倉山緋明神町にあります。もとは、下嵯峨川端村(嵐山・渡月橋北詰の大堰神社東側のあたり)にありました。
『落柿舎ノ記』(向井去来)に「下嵯峨の藪の中にして、嵐山のふもと、大井川の流れに近し」とあり、また俳句に「柿主やこずえは近き嵐山」(去来)があります。共に落柿舎が嵐山の大堰川畔にあったことを物語っています。
落柿舎の名称は、ある商人が、この家の柿の木40本を立木のまま買う約束をしました。ところが一晩の嵐のために柿の実が全部落ちてしまい、この約束が破談となったことに由来します。
松尾芭蕉は、元禄4年4月18日〜5月4日まで落柿舎に逗留し、ここでの滞在記『嵯峨日記』を執筆しています。
去来の没後は荒廃し、明和7年(1770年)、俳人の井上重厚が現在地に復興しました。その後、現在の落柿舎の建っている土地がもともと天龍寺の塔頭弘源寺跡であったので、弘源寺の寺僧の隠棲所となり、捨庵と呼ばれました。捨庵は、明治時代になって落柿舎として再興しました。
左「凡そ天下に去来ほど小さき墓に詣でけり−高浜虚子」
右「五月雨や色紙へぎたる壁の跡−『嵯峨日記』芭蕉」
向井去来の墓(約30cmの自然石に“去来”と陰刻してあります)は、現在落柿舎の裏の弘源寺墓地内にありますが、ここには遺髪が埋葬されています。本当の墓は、左京区浄土寺真如町の真正極楽寺(眞如堂)にあります。
写真:上)落柿舎
中)嵯峨 去来墓
下)真如堂 向井去来墓
解答者:加納 進
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